太平サブローもパワハラ?!若手芸人攻撃は訳あり!吉本から干された過去も戻れて恩義?!

太平サブロー
出典:日刊スポーツ
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7月23日、吉本興業の大平サブロー(63)さんが、大阪市内で、MBSラジオ「こんちわコンちゃんお昼ですょ!」に生出演し、芸人からの批判意見が噴出している現状に「気に入らんかったら、辞めろ」と発言したと報じられました。

この記事では、「太平サブローもパワハラ?!吉本から干された過去も戻れて恩義?!」と題して、発言の内容や干された経緯・復帰の経緯・SNS上での批判の声などまとめます。

 

 

今回の発言についての報道

あや

日刊スポーツの記事を紹介するよ~

大崎洋会長の若手時代からを知り、岡本昭彦社長とも旧知のサブローは、前日22日の会見を「世間の人には申し訳ないけど、頑張って~や、ここ、大事なとこやで、と思いながら見てた」。

物足りない会見に「しゃべり、もうちょっと勉強して」と苦言をていした後に、所属芸人からの批判が止まらない現状を嘆いた。


時代って怖いよな。若い人、こいつらふぜいがそれこそなんや。これこそ、気に入らんかったら辞めろ。ただし、加藤君だけは腹くくって言ってるけどな
退社をかけて、経営陣の刷新を求めた加藤浩次の決意には評価した。

ただ、加藤の発言後、後輩芸人がSNSのツールを使って、一方的に批判の声を浴びせている状況に「弱ったのを見てから物を言う。時代が変わった。おれ、怖かった」と感想を口にした。


サブロー・シローは、先にサブローが吉本へ復帰し、タレントとして再出発。後に、遅れて太平シローさん(享年55)が復帰した経緯がある。復帰後のシローさんは、弟子とコンビを組むも続かず、再起へ苦しんでいた。


サブローは当時、大崎会長が、生前のシローさんに「困ったことあったら、何でも言うてこい」と言っていたことを明かし、芸人思いの一面も披露した。


同番組に出演していたシルクも、相方のミヤコさんを亡くしており、その際に、大崎会長が声をかけてくれたと話していた。

引用:日刊スポーツ

 

今回の吉本興業の問題は、主に東京吉本の芸人の中で起こっており、大阪吉本の古くからいる芸人の中には、経営幹部を攻撃する若手芸人を面白くなく思っている方もいるようです。

古参芸人は、吉本興業を文字通り”ファミリー”と思っているのでしょう。

太平サブローシローが干された経緯

 

実は、太平サブローさんは、吉本興業を辞めたことがあり、漫才コンビである太平サブローシローは、干された過去があります。

 

吉本を辞めた芸人はどうなるのか。典型的なのが漫才コンビの「太平サブロー・シロー」のケースだ。

サブロー・シローがデビューしたのは1976年のこと。

2人はもともと松竹芸能に所属していたが、吉本興業制作の『ヤングおー!おー!』(毎日放送)に出演したいという思いから、吉本への移籍を画策。

だが、当時、吉本と松竹は芸人の引き抜きを禁じる協定を結んでおり、移籍は難しかった。

そこで、師匠の「レツゴー三匹」から破門されたことにし、吉本への移籍を実現したという。

その後、80年代の漫才ブームに乗って人気漫才コンビとしての地位を確立したが、88年、突如として吉本興業から独立した。


何度かの話し合いを経て、サブロー・シローの辞意が固いことを知った吉本の冨井善則制作部長(当時)は「お前ら、自分が思うとるほどたいした芸人やないよ」と言い放ったという。


記者会見でサブローは、こう述べた。
「芸人はナマモノで、電気製品じゃない。これまでは線路の上を自分たちの意志ではなく、無理やり走らされている感じでした。これからはやりたい仕事を選んでやっていきたい。夢を追うのが芸人の仕事です」


吉本に対する不満は2年前からあったという。後にサブローは独立の理由について、こう述べている。


《当時(明石家)さんまさんが東京で暮らし始めたり、(島田)紳助君も東京へ進出したり、関西の芸人さんが東京に居を構えて、東京で勝負しようという風潮があったんです。

(中略)ところが、会社は『オール阪神・巨人』さんと僕とこは、大阪に残って漫才の灯を守れ、と命令形で言うんですわ。

(中略)そのときは、『なんでオレらだけ大阪に残って漫才をせなあかんのや』みたいな気持ちばかりが強くて、会社に交渉しに行ったんです、『なんとかなりまへんか』と。

ところが、交渉の過程で歯車が悪いほうへ、悪いほうへと転がって》(『週刊宝石』93年9月9日号)


当時、漫才ブームを経て吉本興業は大阪の芸能界を制圧していた。

退社後、サブロー・シローは吉本制作の番組3本で降板となり、6月20日に出演を予定していた『2時のワイドショー』(日本テレビ)が突然、中止となり、吉本による圧力が噂された。

吉本の中間搾取がない分、ギャラの取り分は増えたが、徐々にサブロー・シロー排除の動きが強まっていった。


結局、吉本が支配する大阪をあきらめ、東京に活路を見出そうと89年に東京に事務所を設立した。

だが、92年に吉本の東京事務所が東京支社に格上げされ、本格的な東京進出が始まった。次第に東京でも吉本の手が回るようになった。

引用:ニフティーニュース

 

まきお

自分も若いときに、吉本興業に文句言っていたのに・・・

時代って怖いよな。若い人、こいつらふぜいがそれこそなんや。

って言っちゃうの何故だろう???

 

時代が変わったとか言いますが、いつの時代も若い人は血気盛んと言うことでしょうか・・・。

 

 

太平サブローが吉本興業に復帰する条件とは

 

吉本興業から、干された太平サブローさんですが、なんとか復帰できたみたいです。

仕事が行き詰まったことでサブロー・シローは不仲になり、92年にコンビを解消。

そして、独立から93年、サブローが全面降伏し吉本に復帰した。


島田紳助とオール巨人らに付き添われて吉本興業本社を訪れたサブローは、同社幹部に深々と頭を下げ、「すんまへんでした」と詫びた。

吉本興業はサブローに対し、復帰の条件として次の7カ条を突きつけたとされる。
(1) 3ヶ月はノーギャラとする。
(2)吉本を通さない営業(アルバイト)をしない。
(3)吉本内で独立をする動きのあるタレントがいれば、その説得役を引き受け、それを使命とする。
(4)今後、吉本への不満を一切口にせず、独立という思想をもたない。
(5)2週間以内に吉本の会長だった故・林正之助の墓参りに行く。
(6)無条件降伏します。
(7)明石家さんま、オール巨人、島田紳助が保証人となる。

吉本復帰を許されたサブローは、「心配事がなくなって、自律神経失調症が治ってしまいましたワ」と周囲に話していたという。

97年には、シローも吉本と和解を果たした。

彼は意固地になって、タレントを廃業し、大阪でパブを始めていたが、心配した島田紳助が吉本に掛け合った。

吉本に筋を通したシローは、本名の伊東博の名で紳助の番組の放送作家として芸能界復帰した。

その後、大平マサヒコ(現太平まさひこ)と漫才コンビを結成し、舞台に出演するなどの芸能活動も行ったが、12年2月に大阪市内の事務所で倒れ、死去した。

晩年は、絶縁状態にあった元相方のサブローと和解できたという。

引用:ニフティーニュース

 

太平サブローさんは、吉本興業復帰にあたり、次のような条件を飲まされました。

復帰の条件として次の7カ条

 

(1) 3ヶ月はノーギャラとする。
(2)吉本を通さない営業(アルバイト)をしない。
(3)吉本内で独立をする動きのあるタレントがいれば、その説得役を引き受け、それを使命とする。
(4)今後、吉本への不満を一切口にせず、独立という思想をもたない。
(5)2週間以内に吉本の会長だった故・林正之助の墓参りに行く。
(6)無条件降伏します。
(7)明石家さんま、オール巨人、島田紳助が保証人となる。

 

 

あや

復帰条件を守って、若手芸人の発言を攻撃しているという声もあるよ~

 

 

SNSの声・太平サブローもパワハラ

 

 

 

今回は、太平サブローさんに批判的なツイートを集めてみました。

太平サブローさんの発言自体がパワハラだという意見が多いです。

 

まとめ

7月23日、吉本興業の大平サブロー(63)さんが、吉本芸人からの批判意見が噴出している現状に「気に入らんかったら、辞めろ」と発言した件、「太平サブローもパワハラ?!若手芸人攻撃は訳あり!吉本から干された過去も戻れて恩義?!」と題してまとめました。

若い頃は、吉本興業に反発したこともありましたが、復帰させてもらったこともあり、復帰条件を忠実に守っているということなのでしょうか。

まきお

言葉が過激だったから、パワハラという意見が多いみたいだね~

 

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